ウィーン国立音大留学のメリットと現状!卒業生が暴露する【伝統】の意味
音楽の都、ウィーン。
音楽家を志す人なら、 誰もが一度は その石畳の街並みに 憧れを抱くのではないでしょうか。
その中心に鎮座するのが、 1812年設立という 200年以上の歴史を誇る
ウィーン国立音楽大学(mdw)
ですよね、やっぱり。
音大世界ランキングでも 常にトップ10にランクインする、 名実ともに
「最高峰」
音楽大学と言えると思います。
歴史を創った巨匠たちが通った前身

グルックの像
この大学の卒業生やゆかりのある人物のリストは、 もはやクラシック音楽の教科書そのものみたいで、驚いてしまいます。
ウィーン国立音楽大学の前身、アカデミーや、もっと前のコンセルヴァトリウムの時代に学んだ作曲家たち、

ブラームス、
リスト、
J.シュトラウス、
マーラー、
ブルックナー、
バルトーク。
さらには
シェーンベルク、
アルバン・ベルク
といった、 近代音楽の扉を開いた 天才たちも名を連ねています。
指揮者でも
カラヤン、
ジョージ・セル、
アバド、
近年では
ズービン・メータや アーノンクールまで。
演奏家を見ても、
ヨアヒム、グルダ、 ブッフビンダー、シュナーベル、 そしてアルゲリッチ。
これほどまでの巨匠たちが 同じ空気を吸い、 同じ空間で音楽を研鑽した事実は、 留学する者にとって、絶対に計り知れない重みとなりますね。
今生きてる作曲家でも有名な卒業生はいるの?

現代でも、
「クラングフォールム・ヴィーン」の創設者で作曲家ベアト・フラーや
当時から異色を放っていたゲオルク・フリードリヒ・ハースといった
現代音楽に大きな貢献を果たした作曲家たちが輩出されています。
このお2人にはウィーン留学時代に、大学の教授のツテで何度か対面させていただいていて、個人的に大きな影響を受けました。
あの頃は「クラングフォールム・ヴィーン」は設立されたばかりで、
「誰もやってくれる人がいないので、作曲家のベアト・フラーが下手ながらも指揮をするハメになってる」
みたいなことを言われてました。
でも、
「継続は金なり」
の典型的な例で、ベアト・フラーさんは作曲家でありながらも、指揮もどんどん上手くなり、いつの間にか、
「クラングフォールム・ヴィーン」
は、とても高い評価を受けるようになっていました。
ゲオルク・フリードリヒ・ハースにおいては、当時伝統を重視する風潮があったウィーンの作曲界では、本当に、異色中の異色を放っていて、嫌いな人は、彼の音楽が大っ嫌いで、曲の途中で退出する人もいました。
もちろん、ラッヘンマンの曲の時も退場者はたくさんいましたが。
その時よりは少なかったですが。
ゲオルク・フリードリヒ・ハースの曲は、当時から決してラッヘンマンのような過激な音楽ではなかったので、私はなぜ退場するのか理解できず、
「退場するならするで、静かに退場しろよ!」
と内心思った記憶があります。
「未来の巨匠」が隣に座る圧倒的な環境

話は戻って、そんな教科書に出てくる偉人が卒業生にたくさんいる、ウィーン国立音楽大学。
「でも、それって昔の偉人がすごかっただけでしょ?」
とあなたは思うかもしれません。
私も実は、ウィーン国立音大の在学生だった頃はそう思っていた1人です。
でも、最近ふと思ったことがあります。
よく考えると、 当時の同級生たちは、立派に世界の舞台で活躍していました。
例えば私の指揮科の同級生には、
現在ベルリン・フィルの 首席指揮者を務める キリル・ペトレンコや、
スペインで活躍してる指揮者のペドロ・ハルフター、
ギリシャで活躍してる指揮者のウラディミア・シメオニディス、
ドイツのブラウンシュヴァイクの劇場でカペルマイスターをしているアレクシス・アグラフィオティス
ブザンソン国際指揮コンクールで2位を受賞した山田敬明さんとかがいました。
同じ頃にちょっと上とか下にも
元コーミシェオーパー・ベルリンの主席音楽監督のヘンリック・ナナシ
ウィーンが誇る国際的指揮者クリスチャン・アーミング
ブザンソン国際指揮コンクールで優勝した阪哲郎 さんなど。
世界中のオペラ座や オーケストラでタクトを振るスターたちが普通にいたのです。
そして、作曲科の同級生だったゲラルド・レッシュや ヨハネス・クレッツ、 フォルクマール・クリーンなど、 多くの仲間が大学教授として アカデミックな世界を支えています。
そして、少し上の先輩で 今やmdwの教授として強烈な存在感を放っているJ. サンチェスとか、オルガ・ノイヴィルトのような、ウィーン現代音楽界の 重鎮となっている作曲家たちが隣の席に座ってい共に勉強していたという、考えれば贅沢な環境。
振り返れば、 あの頃のキャンパスは まさに「才能の塊」が そこら中に転がっていた 特別な場所でした。
みんな何も気にかけていない 風を装いながらも、 その裏では凄まじい努力を重ね、 自らのキャリアを 切り拓いていったのですね。
ウィーン国立音楽大学の高いレベルは、 今も全く揺らいでいないということは、いろいろな面から実証されていると言っていいでしょう。
30年前に直面した「男社会」の厚い壁
まあ、昔の留学生活は 華やかなことばかりでは ありませんでした。
今でこそ多様性が叫ばれますが、 30年前のウィーン国立音大は 驚くほど封建的な男社会でした。
特に指揮科や作曲科。
当時の指揮科の同級生には女子がおらず、 作曲科も同級生が私を含めて たったの2人しかいませんでした。
「女性が作曲や指揮を挑戦してもしょせんお遊び程度だろ」
という空気が、 教授陣からも学生の一部からも漂っていました。
あるおじいさん教授は、他の学生を苗字で
「〇〇さん」(つまりHerr 〇〇)
と呼ぶのに、 私に対してだけは
「お嬢ちゃん!」(Meine Liebeとか Fräulein)
と呼び、名前すら呼びませんでした。
なんか
「いい子だね、がんばりな」
と頭を撫でられたこともありました。
今なら完全にセクハラかパワハラです。
私は、ある作曲コンクールで入賞したことがあったのですが、その授賞式の時でさえ、 今なら大問題になるような セクシズム全開の発言が 平然と飛び出す時代でした。
私はその、指揮科と作曲科にはびこる男社会の権威的なあり方に心底うんざりしていました。
そんな中、負けずにひたすら頑張って、あの厳しい男社会を生き抜き、自らの道を切り拓いた人も、もちろんいます。
例えば、作曲科の先輩のカタリーナ・クレメント。
彼女は今、母校であるウィーン国立音大の 『電子音響・実験音楽コース(Der Lehrgang für elektroakustische und experimentell Musik)』で教鞭を執っています。
伝統あるウィーン国立音大の中でも、 常に新しい音楽の可能性を探求し続ける エッジの効いた部門。
1区の街全体がキャンパスだった贅沢

当時のウィーン音大(mdw)は、 今のモダンな統合校舎ではなく、 ウィーン1区の街中に いくつかの校舎が分散していました。
Seilerstätte(ザイラーシュテッテ)
Johannesgasse(ヨハネスガッセ)
Annagasse(アンナガッセ)
これらの通りはすべて、 ウィーンの観光スポットの すぐ裏手にありました。
国立歌劇場から歩いて5分、 シュテファン寺院から歩いて2分。
レッスンが終わって 一歩外に出れば、 そこは中世からの歴史が息づく石畳の街です。
重厚な扉を開け、 歴史的な建物の中で 冷たい空気を感じながらゼミに向かう。
練習の合間に国立歌劇場の立ち見席売り場に並んだり、 楽友協会の当日券を狙って走ったりしたあの日々。
街そのものが音楽を育んできた空間であり、 最高のインスピレーションを与えてくれる環境でした。
分散していた校舎の間を 譜面台や重い楽譜を抱えて歩くのも、 今となっては 贅沢な思い出の一つです。
そして、それがやっぱり、ウィーン国立音楽大学で学ぶいちばんのメリットだと思います。
5. 変わらないウィーン、溢れ続ける音楽
最近、数年ぶりに ウィーンを訪れました。
毎度感じるのですが、驚くほど、 前と変わっていませんでした。
それがウィーンの最大の魅力であり、 同時に保守的すぎるという欠点でもあるのかな?
でも、街の角を曲がればどこからか楽器の音が聞こえ、 夜になれば着飾った人々が 、香水の匂いをぷんぷんさせながら楽友協会やオペラ座へ向かう。
その音楽が生活に溶け込んだ風景が、 30年前も今も 全く変わらないのは奇跡かもしれません。
ウィーン国立音楽大学は、 多分、今も変わらず、 厳しいけれど世界で一番濃密な音楽体験を約束してくれる場所なんでしょう。
音楽を志すなら、 ぜひその門を叩いてみてください。
もし、具体的な音大選びや準備について知りたい方は、いつでも相談してくださいね。
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